【お城データ】 | ||
形状: | 山城 | |
所在地: | 岐阜県恵那市岩村町字城山 | |
交通: | 車で行くことをお勧めします | |
築城年: | 承久3年 (1221) | |
築城者: | 遠山景朝 | |
城主: | 遠山氏−森氏−大給松平氏−丹羽氏 | |
遺構: | 石垣、井戸 《城麓の藩主邸跡》 表御門・平重門・太鼓櫓(復元) | |
【写真GALLERY】 | ||
(周辺観光) 中山道界隈 |
歴史と 見どころ |
【日本100名城】 日本の三大山城と呼ばれています。(残りは高取城、備中松山城) 大変長い歴史を持っている城です。 本丸に天守閣はなかったが城下からよく見える追手門に三重の櫓が立てられました。 本丸は標高713メートルのところにあり日本一の高さです。
・1185年(文治元年) 源頼朝の重臣加藤景が築く(伝承の域をでない) ・1571年(元亀2年) 織田勝長(信長の5男で当時6歳)を遠山氏の養子とした。前城主景任夫人が信長の叔母(おつやの方)で実質女城主となる。 ・1572年(元亀3年) 信玄が家康攻撃のため出陣、秋山虎繁が岩村城を攻略。城は落ちず虎繁は夫人を説得し妻に迎える条件で開城した。 ・ ・1582年(天正10年) 河尻秀隆が甲斐国に移封、団忠正の居城となるが3ヶ月後本能寺の変で戦死。信濃国から森長可が接収し、森忠政が引き継いだ。 この時の城代となった森氏家老、各務元正が約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。 ・ ・ ・ ・1645年(正保2年) 大給松平氏が上野国館林城転封、代わって三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。 ・1702年(元禄15年) 丹羽氏お家騒動により越後高柳藩に転封、同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城。 |
所見 | 苗木城から岩村城に向かいます。 まずは城の北西山麓にある藩主邸跡 ここに慶長6年(1601)東西33間、南北36間の御殿が構えられました。
今は歴史資料館と駐車場となっていて、遺構は残っていませんが平成2年に太鼓櫓、表御門、平重門が復元されています。 麓から登城道を上ると良いのだが楽をして車で本丸下の出丸まで行きました。 藩主邸から本丸まで850メートルの登城道(上り坂)だそうです。 ただし駐車場から直接本丸には行かず埋門跡を左方面に下り、本丸と二の丸の間を通って六段の石垣下に出て、二の丸菱櫓下→八幡曲輪→霧ヶ井→竜神の井→追手門と200メートル程度下って追手門三重櫓の石垣を見てから 再度本丸へと戻りました。 この間200メートルは山城とは思えないほど平坦です。本丸からの眺望を期待しましたが木々に遮られ、城下を見ることはできませんでした。 |
アクセス | 【鉄道で】 JR中央本線恵那駅で乗換 明智鉄道岩村駅から徒歩30分で麓の藩主邸跡 【車で】 中央高速恵那ICから阿木川ダム経由で30分程度で麓の藩主邸跡 |
岩村城麓に藩主邸があります | 復元された平重門 | |
平成2年復元された太鼓櫓と表御門 | 土蔵らしきものもあるがどこの遺構かは不明 | 表御門下には八重桜が満開 |
出丸に車を停める 正面には本丸の石垣が | 標高700メートルに築かれたとは思えない立派な石垣 下は帯曲輪 | 二の丸から本丸へ上る埋門跡 本丸へは行かず左手に下ります |
六段の石垣のすぐ下に出ます | 一度下って追手門へ | 二の丸菱櫓の石垣 |
八幡曲輪の石垣 想像以上に平坦です | 竜神の井 | |
追手門桝形より三重櫓石垣を覗き込む | 追手門をかつての空堀底より望む | この上に畳橋が架かっていました |
追手門桝形を形成する石垣群 | 再度本丸へ上り直します ここから200メートル程 | 途中 霧ノ井 岩村城の別名の由来となった井戸です |
再び六段の石垣へ | 同じく六段の石垣 | 本丸入口の東口門跡 |
東口門 いよいよ本丸です | 本丸よりの眺め | 本丸 |
本丸から東口門跡と東曲輪を見下ろす | 埋門 | 埋門 ここを出ると二の丸となります |
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